お風呂上がりの男が二階に上がると、お化粧をしたきれいなお姉さんが待っていた
1885年(明治18)東京
1902年に出た『夜の女界』という本があります。夜の女たちの暮らしを、案内書のように説明するより具体的に描いたほうが面白いからと、場面ごとに物語のように書いた見聞記です。その中に「夜の銘酒屋」という章があり、見出しには「淺草公園の夜」「意外なる暗室」「露地裏の罪惡」と並びます。
舞台は浅草公園の銘酒屋。客の男と店の女が、値段の話をしています。男は、お札二枚きっかりにしようと言う。女は口では、姉さんに相談してみますからね、と言って立ち上がり、店先の長火鉢の前で女将に何やら耳打ちして戻ってきます。返事は、それでようござんす。女はもうすっかり身を任せたという風に、男の膝にもたれかかり、下から顔を見上げて、先に出してちょうだい、姉さんに渡しておかなくちゃいけないから、とせがみます。玉代は先払いです。
金を渡すと、女は男の手を取り、奥の襖を開けて連れ込みます。三畳の小座敷。三分心のランプがひとつ、芯を絞って薄暗くしてあります。明るくしましょうか、と女は聞き、いっそ暗いほうがいいわ、なんだか気まりが悪いから、と自分で答えます。
けれど、ここで朝まで、ではありません。女が言うには、このごろは本当に怖い。お客を家に泊めることはとてもできないので、お婆さんの家を借りることにしている。いっしょに歩くと巡査がすぐ目をつけるから、一足先に行っていてちょうだい。ほんのちょっとの間、チヨンの間なら、ここでもいいんだけれど。
やがて襖がそっと開き、女将が顔を出して、迎えが来たと告げます。男が下駄を履いて表へ出ると、往来に立っていた見知らぬ男が目で合図をして、すたすたと歩き出す。案内の男は一言も口をききません。公園を出て、パノラマ館の裏手の、鉄道馬車の通る暗い往来へ。真っ暗な路地の入口で立ち止まり、あたりに気を配ってから、初めて低い声で、旦那、こっちへ、とだけ言います。
着いたのは、建て付けの悪い水口の戸を開ける、貧乏所帯の家でした。煤けた破れ障子の奥に八畳間と長火鉢。四十いくつの色の黒い女房が座布団を勧め、亭主が渋茶を淹れます。銘酒屋から来る客のために、雑誌の『文藝倶樂部』まで用意してあります。
待つあいだ、男は女房に聞きます。銘酒屋の女はやっぱり前借りで住み込んでいるのかい。女房の答えは、お金で抱えているのではない、めいめい稼いだ分を分けるんです。芸者奉公より見栄にお金がかからないから、かえって実入りがいいそうですよ。
路地のどぶ板に足音がして、世間を忍ぶ低い声で、おばさん、今晩は。暗い道を駆けてきたらしく、女は息を弾ませています。とりとめのない話を十分ほどしたあと、女房が気をきかせて、おや、もう十時過ぎだよ、と言う。それを合図に、女は男を二階の暗闇へ引き込みます。
章はそこで、外の音に耳を移して終わります。夜はしんと静まり、通りを行く鉄道馬車の響きも絶え、近くの寺で叩く念仏の鉦が陰気に聞こえるばかりである。
出典 41件
- 桐友散士『夜の女界: 暗面奇観』(猶興舍、1902)奥付、OCR の p.103 原文原文と機械で照合済み
明治三十五年九月五日發行
- 同上 序、OCR の p.2 原文原文と機械で照合済み
殊更に、其一部と一面とを具體的に描きたる所以は、かの案內的に說明するよりも、趣味深きを信じたればなり
- 同上 目次、OCR の p.4 原文原文と機械で照合済み
夜の銘酒屋○淺草公園の夜○お寄んなさいよ○白首の談判○意外なる暗室○露地裏の罪惡
- 同上「夜の銘酒屋」、OCR の p.48 原文原文と機械で照合済み
二枚きつかり出す事にしやうよ
- 同上 原文原文と機械で照合済み
姉さんに一遍相談して見ますからね
- 同上 原文原文と機械で照合済み
店口の長火鉢の前に行き、女將と何やら、耳打をして歸つて來た
- 同上 原文原文と機械で照合済み
其で能御座んすツて
- 同上 原文原文と機械で照合済み
と最う悉皆身體を任して了つたと云ふ風に
- 同上 原文原文と機械で照合済み
男の膝に凭れか〓つて、下から顏を見上げながら
- 同上 原文原文と機械で照合済み
玉代は先拂ひと來たんだね
- 同上 原文原文と機械で照合済み
向ふの襖を明けて、連込まれ
- 同上 原文原文と機械で照合済み
三疊の小座敷だ。たつた一個、三分心のランブが薄暗き心を捻つてある
- 同上 原文原文と機械で照合済み
明るくしませうか
- 同上、OCR の p.49 原文原文と機械で照合済み
寧そ暗い方が好いわ
- 同上 原文原文と機械で照合済み
何だか氣まりが惡いからねえ
- 同上 原文原文と機械で照合済み
此頃は本統に怖いのよ
- 同上 原文原文と機械で照合済み
到底も家なんかへお客樣を宿める事は出來
- 同上 原文原文と機械で照合済み
お婆さん宅をね借りる事に爲たんですよ
- 同上 原文原文と機械で照合済み
巡査が目を付けるからね
- 同上 原文原文と機械で照合済み
鳥渡の間-チヨンのま
- 同上 原文原文と機械で照合済み
此處でも可いんだけれど
- 同上 原文原文と機械で照合済み
襖が窃と明いて
- 同上 原文原文と機械で照合済み
往來に立つて居た男が、目で
- 同上 原文原文と機械で照合済み
决して一言も口を利かないで
- 同上 原文原文と機械で照合済み
パノラマの裏手の鐵道馬車の通つて居る、暗い往來へ出た
- 同上 原文原文と機械で照合済み
眞暗な露地の入口まで來ると
- 同上 原文原文と機械で照合済み
具合の惡い水口の戶を開ける、內の樣子は凡て貧乏世帶の世話塲
- 同上 原文原文と機械で照合済み
鼠色に煤つた破障子を明けると、八疊の間、長火鉢
- 同上、OCR の p.50 原文原文と機械で照合済み
四十幾歲と云ふ色の黑い婆が
- 同上 原文原文と機械で照合済み
亭主は澁茶を汲んで勸めた
- 同上 原文原文と機械で照合済み
からのお客の爲めに備へ付けてある文藝倶樂部
- 同上 原文原文と機械で照合済み
前借でもして
- 同上 原文原文と機械で照合済み
お金で抱えてるんちや無いんです
- 同上 原文原文と機械で照合済み
銘々稼いだ丈けを分にして分けるんですね
- 同上 原文原文と機械で照合済み
見得が掛らないから、却て身入が好い
- 同上 原文原文と機械で照合済み
露地の溝板に足音が聞えて
- 同上 原文原文と機械で照合済み
忍ぶ低い聲
- 同上、OCR の p.51 原文原文と機械で照合済み
呼吸を喘ませながら
- 同上 原文原文と機械で照合済み
もう十時過
- 同上 原文原文と機械で照合済み
男を二階の暗闇に
- 同上 原文原文と機械で照合済み
寺で叩く念佛の鈴が、陰氣に聞えるばかりである